ゲルト・ミュラー

1974年西ドイツ大会

ゲルト・ミュラー, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=79779 / CC BY SA 3.0

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ゲルハルト・”ゲルト”・ミュラー(Gerhard “Gerd” Müller、1945年11月3日 – )は、西ドイツ・ネルトリンゲン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
ポジションはFW。
1970年代の西ドイツを代表するストライカー。
抜群の得点感覚とポジショニングで泥臭いゴールを得意とし、どんな体勢からでもゴールを奪った。
驚異的な数の得点を量産し、デア・ボンバー(爆撃機)と呼ばれた。
バイエルンでは通算515ゴールを決め、クラブ最多ゴール記録数を保持している。
ボールにサインするミュラー(1967)。
彼から見て右はフランツ・ベッケンバウアーとヴェルナー・オルク. 1963年、地元のクラブ・TSVネルトリンゲンでデビュー。
ここでの活躍がスカウトの目に留まり、翌シーズンにはバイエルン・ミュンヘンと契約。
在籍15年間で4回のリーグ優勝(1969 / 72 / 73 / 74年)、7回の西ドイツ・ブンデスリーガ得点王(1967 / 69 / 70 / 72 / 73 / 74 / 78年)、チャンピオンズカップ優勝3回(1974 / 75 / 76年)、カップウィナーズカップ優勝1回(1967年)、西ドイツカップ優勝4回(1966 / 67 / 69 / 71年)、ブンデスリーガ 通算427試合365得点の成績を残した。
1979年、西ドイツを後にしてアメリカへ渡り、フォートローダーデール、スミス・ブラザーズに所属した後、1982年に現役を引退した。
引退後は一時期アルコール依存症に苦しんだ時期があったが、旧知の仲であるバイエルン・ミュンヘンのウリ・ヘーネスGMやフランツ・ベッケンバウアー会長、ゼップ・マイヤーGKコーチの助けもあり、アルコール依存症を克服。
同クラブの育成部門でアシスタントコーチなども務めた。
1992年から2014年まで、バイエルン・ミュンヘンサテライトチームのアシスタントコーチを務めていた。
2015年10月、アルツハイマー病に罹患しており、同年2月から専門的な治療を受けていることをバイエルン・ミュンヘンが発表した。
1974 FIFAワールドカップの表彰式後のミュラー(右)。
左はヴォルフガング・オヴェラート。
1966年10月12日 vsトルコ戦で代表デビュー、無得点に終わるが2戦目のアルバニア戦では4ゴールを挙げた。
1970年メキシコワールドカップではグループリーグのブルガリア戦、ペルー戦でハットトリックを決め、準決勝のイタリア戦で2ゴールを決めるなど(3位決定戦となったウルグアイ戦以外の全ての試合でゴールを決めた。
)、10得点で大会得点王を獲得した。
1974年西ドイツワールドカップでは、オランダとの決勝戦で決勝ゴールを決めるなど、4得点3アシストを挙げた。
ワールドカップ通算14ゴールは、ブラジル代表のロナウドが2006年ドイツワールドカップで塗り替えるまでは、32年間歴代最多記録であった(2014年現在歴代3位。2010年南アフリカ大会でドイツ代表の後輩となるミロスラフ・クローゼに並ばれた。クローゼは2014年ブラジル大会で通算16得点とし、最多記録保持者となっている)。
1972年の欧州選手権では決勝のソビエト戦で2ゴールを挙げるなど、4得点を記録し、得点王に輝く活躍でチームを優勝へ導いた。
なお、1974年決勝オランダ戦を最後に28歳で代表を引退した。

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