プレドラグ・ミヤトヴィッチ

1998年フランス大会

プレドラグ・ミヤトヴィッチ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=354673 / CC BY SA 3.0

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プレドラグ・ミヤトヴィッチ(セルビア語: Предраг Мијатовић, Predrag Mijatović, 1969年1月19日 – )は、モンテネグロ・ポドゴリツァ出身の元サッカー選手。
現役時代のポジションはフォワード。
元ユーゴスラビア代表。
ユーゴスラビアを代表するストライカーのひとり。
巧みな足技と力強いドリブルが持ち味で、速い足の振りから繰り出す強力なシュートから「バルカンの速射砲」の異名をとった。
元々は攻撃的なMFとしてキャリアをスタートしたが、のちに前線FWへとポジションを上げ活躍した。
数年ユースチームで過ごした後、1987年に地元のクラブチーム・ブドゥチノスト・チトーグラードでキャリアをスタート。
同年のワールドユースに出場し、ユーゴスラビアチームの優勝に貢献する。
1987-88シーズンにはクラブのレギュラーとなり、デヤン・サビチェビッチやドラゴリュブ・ブルノヴィッチ、ブランコ・ブルノヴィッチらと共にプレー、31試合に出場した。
1989年冬の移籍市場にてパルチザン・ベオグラードへ移籍して、デビュー戦となった古巣ブドゥチノストとの試合でゴールを挙げた。
しかし、移籍後半年程度は新しい環境にうまく適応することが出来ず、得点を重ねることができなかった。
翌シーズン、14得点を記録して才能を開花させた。
1991-92シーズンには国内カップ獲得。
1992-93シーズンにはチームのリーグ優勝に貢献した。
1993年夏の移籍市場でリーガ・エスパニョーラ・バレンシアへ移籍。
9月5日のレアル・オビエド戦でデビューを果たすと、フース・ヒディンク率いるチームにおいて絶対的な存在となった。
最終的にリーガ初シーズンは35試合に出場し、16得点を記録した。
1995-96シーズンにはリーグ2位となる28得点を挙げた。
1996-97シーズンからはレアル・マドリードでプレー。
移籍1年目からファビオ・カペッロの下ダヴォール・シューケル、ラウル・ゴンサレスの3人で攻撃を展開し、リーガ優勝の原動力となる。
翌シーズンには怪我などもあってリーグ戦は24試合出場に留まったが、アムステルダム・アレナで行われたユヴェントスとの決勝では決勝点を決め、レアル・マドリードにUEFAチャンピオンズリーグをもたらした。
これらの活躍により同年のバロンドール投票では第2位となった。
1998年にチームはトヨタカップを制したが、ラウルとフェルナンド・モリエンテスの二人が優遇され、ミヤトヴィッチは不遇の時期を過ごした。
1999年にクラブがニコラ・アネルカを獲得したことにより、シーズン後にセリエA・フィオレンティーナへ移籍。
しかし怪我の影響もあって目立った活躍は出来ず、2001-02シーズン後のクラブ消滅を期にイタリアを離れた。
他クラブからいくつかのオファーがあったものの、家庭の事情からスペインに戻り、当時セグンダ・ディビシオン(2部)のレバンテへ加入。
1シーズンプレーした後、2003年に現役を引退した。
1989年8月23日のフィンランド戦で代表デビュー。
1998年のフランスW杯プレーオフでは2試合7得点と大爆発しヒーローとなったが、本大会では4試合1得点に留まった。
代表通算73試合出場、28得点。
2006年、ラモン・カルデロンがレアル・マドリードの会長となったことにより、スポーツディレクターに就任。
2009年まで同職を務めた。

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