パオロ・マルディーニ

1998年フランス大会

パオロ・マルディーニ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=33195 / CC BY SA 3.0

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パオロ・チェーザレ・マルディーニ(Paolo Cesare Maldini, 1968年6月26日 – )は、イタリア・ロンバルディア州ミラノ出身の元サッカー選手。
ポジションはディフェンダー。
元イタリア代表選手。
セリエAのACミランに所属していた。
史上最高の左サイドバックと評され、ミランの象徴とまで呼ばれた選手 。
そのサッカー人生の全てをACミランに捧げ、25年間という長きにもわたりミランのバンディエラ(旗手)としてクラブを支え続けた。
イタリア代表ではFIFAワールドカップ4大会連続出場を果たし、1998年フランスW杯、2002年日韓W杯の2大会で主将を務めた。
彼が築き上げたサッカー人生は、やがてセリエA最多出場試合数(647試合)、W杯最多フル出場試合数(23試合)、W杯最多出場時間(2217分)という3つの歴代最多記録を打ち立て、幾多のタイトルと共に(後述)、今日のサッカー史にその名が刻まれている。
ACミランでのマルディーニ(2008年) 父親のチェーザレ・マルディーニは、息子と同じくACミランのキャプテンを務め、1962-63シーズンのUEFAチャンピオンズカップ優勝を成し遂げ、ミラン、イタリア代表監督を共に務め挙げた存在。
必然的にパオロはその下で幼少期よりサッカーに親しんでいった。
ニルス・リードホルム監督の下1985年1月20日のウディネーゼ戦において途中交代という形で16歳でセリエAにデビューした。
以降25年間に亘り第一線でプレイし続けることになる。
1987年1月4日のコモ戦でセリエA初ゴールを決めた。
1987-88シーズンにセリエA初制覇、1988-89シーズンのチャンピオンズカップ決勝でステアウア・ブカレストを4-0で破り初優勝、1989年のインターコンチネンタルカップでメデジンを1-0と破って優勝した。
1989-90シーズンのチャンピオンズカップ決勝でもベンフィカを1-0と破り同タイトルを連覇、1990年のインターコンチネンタルカップでもチームはオリンピアを3-0と破り優勝したが、パオロは前半で負傷の為途中交代、肩を脱臼脱窮していた。
1991-92シーズンはミランの無敗優勝に貢献、1993-94シーズンチャンピオンズリーグ準決勝ASモナコ戦では決勝ゴール、決勝のFCバルセロナ戦では、出場停止のバレージに代わり、初めてセンターバックのポジションに入り、ロマーリオとストイチコフのツートップを完璧に抑え、優勝に貢献、またワールドカップでは、決勝でPK戦の末ブラジルに敗れたが、イタリアを決勝に見導くなど活躍から同年のバロンドール投票では第3位となった。
2004-05シーズンのチャンピオンズリーグ決勝リヴァプールFC戦では先制点を決めたが、3-3からの延長PK戦で敗れた。
長年一線級で活躍し、一時代を築いてきた彼は進退に対して注目されることも多かった。
とはいえ、セリエAはもとより世界に於いてトップクラスの資質を保ち続けたこと、平均年齢が高齢化したミランのディフェンダー陣再構築が遅々として進んでいなかったこと、また精神的支柱としての立場を考慮し、シルヴィオ・ベルルスコーニ会長らクラブ首脳陣は慰留を続けた。
代表チームを引退し「2足の草鞋」を脱いでクラブでのプレーに専念することで、再び世界トップレベルのDFとして復活した。
アレッサンドロ・コスタクルタと共に2007年7月末の契約満了をもって現役引退を示唆したシーズンには、チャンピオンズリーグ 2006-07の決勝でリヴァプールを破り2004-05シーズン決勝で敗れた相手に雪辱をはらし優勝を決めた後「今度はクラブW杯をとりたい。」と語り、翌シーズンもプレーする意思を表明した。
膝の怪我を手術した影響で2007-08シーズンは出場機会が限定されたものの、FIFAクラブワールドカップ2007では長年のキャリアで数々の栄光を勝ち取った本職の左サイドバックとして準決勝に途中出場、決勝でもフル出場し優勝に貢献した。
2007年2月20日にはチャンピオンズリーグの対セルティック戦においてチャンピオンズリーグ通算100試合出場を達成…

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