日本語訳あり【マラドーナ監督のスペイン語】W杯南米予選で歓喜のダイブ!奇跡により命拾いをした、2009年10月、Diego Maradona

2010年南アフリカ大会

2009年10月10日W杯南米予選:アルゼンチン2-1ペルー◇アルゼンチン・ブエノスアイレス

 ディエゴ・マラドーナ監督(48)率いるアルゼンチンがペルーに2-1と競り勝ち、連敗を3で止めて本大会出場圏内の4位に浮上した。ロスタイムの後半45分に同点とされたが、3分後にFWマルティン・パレルモ(35=ボカ・ジュニアーズ)が決勝弾。歓喜のマラドーナ監督は豪雨のピッチにダイブし、人目もはばからずに号泣した。W杯切符をかけて14日の最終節で5位ウルグアイと対戦する。

1:59 後半開始パレルモ投入、イグアインによるアルゼンチン1点目
2:33 後半44分、レンヒフォによるペルーの同点ゴール
2:55 後半ロスタイム、パレルモによるアルゼンチン勝ち越しゴール
3:20 マラドーナ監督のダイブ
3:34 マラドーナ監督の試合後インタビュー

 波乱(はらん)万丈の人生そのまま、劇的な結末だった。風雨が強まり、嵐となった終盤。後半45分にアルゼンチンは1点リードを守りきれず、同点ゴールを許した。マラドーナ監督はベンチ前で豪雨に打たれ、うなだれた。その3分後、CKを起点に相手ゴールを攻め立て、最後はパレルモが左足でゴール。2-1。最後の最後で、神は見捨てていなかった。

 まだ試合中にもかかわらず、マラドーナ監督は勢いよく水浸しのピッチに向けてダイビングヘッド。ジャージーのズボンをおしりに食い込ませ、感情を爆発させた。試合終了直後には、チーム全員がピッチに飛び出し、まるでW杯に優勝したかのようなお祭り騒ぎだ。マラドーナ監督はパレルモに抱きつき、そして人目もはばからずに号泣した。重圧から解放され、「神の子」も人の子だった。

 マラドーナ監督 ドラマチックな試合で、最後に勝利をつかんだ。絶望のふちでサン・パレルモ(聖人パレルモ)の奇跡が起きた。彼は我々に新たな道を切り開き、命を与えてくれた。

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 – 2020年11月25日)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州ラヌース出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワードまたはミッドフィールダー。

ペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアー、アルフレッド・ディ・ステファノ、ジーコなどと共に20世紀のサッカー史に名を残すスター選手である。

アルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューし、ボカ・ジュニアーズを経て欧州に渡った。FCバルセロナではさまざまな問題に悩まされたが、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回の立役者となり、「ナポリの王様」と称されてファンに愛され、在籍時に着けた背番号10番は永久欠番になり、死後はその功績を称えるべく、ホームスタジアムの名称が「エスタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」となった。セビージャFC、ニューウェルズ・オールドボーイズ、ボカ・ジュニアーズでの在籍は短期間に終わり、1997年に現役引退した。引退から時間が経った現在でも彼の信奉者はファン、選手、サッカー関係者を通じて多く特にアルゼンチンでは彼を「神の子」と崇拝する宗教が生まれ、ナポリでは旧市街に彼を讃える祭壇が設けられているほどであり、自らのキャリアを汚す薬物スキャンダルなどもあったが、人間的な魅力に溢れた彼を愛する人間も多い。

1977年に歴代最年少(16歳)でアルゼンチンフル代表戦出場、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれ世界デビュー。FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986 FIFAワールドカップではチームを牽引して優勝に導いた。準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは彼を象徴するプレーとして後世に語り継がれている。

しかし、1994 FIFAワールドカップでは大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会から追放処分を受けた。選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後は入退院を繰り返した。2008年にアルゼンチン代表監督に就任し、2010 FIFAワールドカップ南米予選を辛くも突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、2010年7月に解任された。

2020年11月25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。

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