ニコラス・ブルディッソ

2006年イタリア大会

ニコラス・ブルディッソ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=601596 / CC BY SA 3.0

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ニコラス・アンドレス・ブルディッソ(Nicolás Andrés Burdisso, 1981年4月12日 – )は、アルゼンチン・コルドバ州アルトス・デ・チピオン出身の元サッカー選手。
ポジションはディフェンダー。
1981年4月12日にブルディッソ家の長男として生まれる。
父エニオは小学校の校長を務め、母ベアトリスは小学校の教師という家庭環境にあって、幼少年期は学校の旗手を頻繁に務める成績優秀な学生であった。
弟のギジェルモもプロのサッカー選手として活躍している。
地元のサッカークラブで競技生活をスタートさせ、周囲からの薦めもあって14歳の時にニューウェルズ・オールドボーイズに入団。
やがてニューウェルズは深刻な財政難に陥り、下部組織の寮生活を賄えなくなると、ニコラスは首都に拠点を置くボカ・ジュニアーズに入団した。
ボカ入団後は長く試練のときが続き、出場機会を得ることのできない日々が続いた。
一方で当時トップチームの監督を務めていたカルロス・ビアンチは入団当初から評価しており、1999年10月に18歳という若さながらトップチームへ昇格させた。
この抜擢の後、ブルディッソは成長を遂げ、19歳で既にチームの主力選手として3冠達成に貢献。
ボカでの目覚ましい活躍は、ホセ・ペケルマン率いるU-20アルゼンチン代表入りを促し、地元アルゼンチンで開催されたFIFAワールドユース選手権に出場すると、決勝トーナメント以降に不動のレギュラーに定着し、世界制覇の原動力となった。
この頃から欧州の中堅クラブからオファーが届くようになるが、移籍はしない考えを貫き、2003年1月には初のA代表入りを果たし、同年に自身2度目となるボカでの3冠を達成した。
2004年7月1日、満を持してインテルナツィオナーレ・ミラノに移籍。
しかし、同年に当時1歳の娘アンジェリーナが白血病に冒され、半年間娘の看病に専念することを決意した。
2005年9月にアンジェリーナの病気は完治し、ブルディッソ自身もインテルに復帰。
半年間実戦から遠ざかっていたが、インテルは代役を探すこともせず早速メンバー入りを果たした。
2006年には「逆転招集」と言われる形で2006年ドイツW杯のアルゼンチン代表メンバーに入り、グループリーグ全3試合に右SBとして出場した(第3戦のオランダ戦で負傷し、ベスト16以降は出番なし)。
2007年3月7日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント、バレンシアCF戦後の乱闘騒ぎでは相手DFダビド・ナバーロに鼻を殴られ、骨折する怪我を負った。
その後はインテルでは主に控えとしてすごし、2009年8月22日に出場機会を求めASローマへレンタル移籍した。
ローマでは不調のフィリップ・メクセスに代わりレギュラーとなり、インテルとの優勝争いをしたチームに貢献した。
2010 FIFAワールドカップのアルゼンチン代表メンバーにも選出され、当初は控えだったもののワルテル・サムエルの負傷もありグループリーグ第3戦のギリシャ戦以降は先発出場。
アルゼンチンの全5試合に出場しベスト8進出に貢献した。
シーズン終了後にはローマへの完全移籍を希望。
金銭面での問題などから難航するも、2010年8月28日に移籍金800万ユーロでの完全移籍が発表された。
弟のギジェルモもレンタル移籍での加入が決定しており、これにより2009-10シーズンからは兄弟でローマでプレーすることとなった。
2014 FIFAワールドカップ出場を目指し移籍を志願し、2014年1月23日、ジェノアCFCに移籍した。

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