#356 日本の”10番”ファンタジスタ、中村俊輔引退。ワールドカップ2度出場、アジアカップ2連覇に貢献。セルティックでのMVP。数々の芸術的なフリーキック。ありがとう!そしてお疲れ様でした。

2006年イタリア大会

元日本代表MF中村俊輔が引退 J2横浜FCが正式発表「26年間多くのご声援ありがとうございました」

10/18(火) 12:00配信

スポーツ報知

 J2横浜FCに所属する元日本代表MF中村俊輔(44)が今季で引退することが18日、クラブを通じて発表された。日本代表では背番号10を背負い、2006年のドイツW杯と10年の南アW杯に出場した。代名詞のFKを武器にイタリア、スコットランド、スペインでもプレーした。 【写真】超若い!レアな桐光学園時代の俊輔  ファンタジスタがプロ26年目で終止符を打つ。桐光学園高時代の96年度の全国高校選手権で準優勝、鳴り物入りで横浜FM入りした。司令塔として人気選手となり00年に22歳の最年少でMVP獲得。同年にデビューした日本代表では主に背番号10を背負い通算98試合24得点。アジア杯では2連覇し、2度W杯に出場した。  02年からはレッジーナ(イタリア)、05年からはセルティック(スコットランド)でプレーし、07年のスコットランドリーグMVPを獲得。欧州リーグでのMVPは日本人初めての快挙だった。エスパニョール(スペイン)を経て10年に横浜FMに復帰。13年には史上初めてとなる2度目のMVPも受賞した。17年からは磐田でもプレーしJ1通算408試合73得点。直接FKではJ1歴代最多の24得点をあげている。  クラブを通じてのコメントは以下。「今シーズンをもち現役から退く決断をしました。幼稚園のときにサッカーボールを蹴り始めてから、40年もの月日が経ちました。はじめは、楽しいという思いだけで始めたサッカー。そのサッカーが仕事となり、プロサッカー選手として26年間も過ごすことができました。長いサッカー人生の中で、幾度となく苦悩や挫折がありましたが、いつも誰かが自分のことを支えてくれ、背中を押してくれました。一緒に戦ってくれたチームメイト、指導をしてくださった監督・コーチ、ケガの治療やケアをしてくれるドクター・トレーナー、クラブに携わっていただいた方々、そして、いつも熱い応援をしてくださるファン・サポーター、すべての皆様に感謝申し上げます。本当に多くの支えがあったからこそ、これまでサッカー選手として闘い続けることができました。26年間多くのご声援、ご協力をいただき誠にありがとうございました」  〇…横浜FCは18日にハッシュタグキャンペーンを行うと発表した。テーマは「あなたにとっての『中村俊輔』とは」。「#ありがとう俊輔」「#中村俊輔」で思い出の試合やプレーをツイートしてレフティーの門出に花を添えるつもりだ。   ◇中村俊の歩み  ▽97年 桐光学園高3年で司令塔として準優勝。その後横浜M加入し優秀新人賞。ワールドユース(現U―20W杯)に出場し8強。  ▽98年 仏W杯を目指す岡田武史監督の日本代表合宿に初招集された。  ▽2000年 シドニー五輪代表として8強。フル代表でもシンガポール戦でデビューした。横浜FMでも第1S優勝に貢献し最年少22歳でJリーグMVPに選出された。  ▽02年 有力だった日韓W杯代表メンバー落ち。7月にイタリア1部・レッジーナに移籍。  ▽03年 仏コンフェデ杯で3得点をあげ、ブロンズシューズ賞  ▽04年 全試合に出場し、アジア杯連覇に貢献しMVP。結婚も発表した。  ▽05年 コンフェデ杯のブラジル戦でゴール。夏にスコットランド1部セルティックに移籍  ▽06年 W杯ドイツ大会・オーストラリア戦でゴール。欧州CL・マンチェスターU戦は2戦連続FK弾で決勝トーナメント進出。  ▽07年 スコットランド1部を連覇。日本人初のMVPを獲得。  ▽09年 スペイン1部のエスパニョールに移籍。  ▽10年 横浜FM復帰。W杯南アフリカ大会ではMF本田圭佑とのポジション争いに敗れ、出場は1試合のみ。大会後、代表引退を決めた。  ▽13年 自身初の2ケタ得点で終盤まで首位を保持。最終節において広島に逆転優勝を許したが、史上初である2度目のJリーグMVP  ▽17年 名波浩監督率いる磐田へ移籍。6位躍進に貢献した。  ▽19年 夏にJ2横浜FCへ移籍。J1昇格を果たした

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