サッカーカタール代表

2006年イタリア大会

サッカーカタール代表, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=560572 / CC BY SA 3.0

#アジアのサッカーナショナルチーム
#カタールのサッカー
#スポーツのカタール代表チーム
サッカーカタール代表は、カタールサッカー協会によって編成されるサッカーのナショナルチームである。
愛称のAnnabiは預言者の意味。
AFCアジアカップ2019の優勝を祝うカタールの選手たち 1980年代から力をつけ始め、1981年のFIFAワールドユース選手権準優勝、1984年、ロサンゼルス五輪(今大会からプロ出場が可能になった。
但し、W杯予選もしくはW杯本大会に出場した欧州や南米の選手は出場できない制限があった)に出場した。
上位2か国が出場出来る1990年イタリアW杯アジア最終予選では2位UAEとわずか勝ち点1差の3位とW杯出場まであと一歩の所まで迫った。
1992年7月24日に開幕したバルセロナ五輪(この大会から23歳以下の選手の大会)に出場し、グループリーグを2位で通過し、ベスト8入りした(=決勝トーナメント進出)。
このように着々と実力を付けたカタール代表に、ブラジル人のエヴァリスト・デ・マセドが1992年監督に就任。
カタール代表は1992年10月28日から日本で開催されるアジアカップの優勝候補に挙げられていた。
ところが、カタール代表はグループリーグでまさかの敗退。
一方、開催国の日本はブラジルから日本に帰化したラモス瑠偉等の活躍で初優勝を遂げた。
このことに衝撃を受けたカタールは以後、帰化選手による強化戦略(後述)を開始した。
ガルフカップ優勝3回(1992年、2004年、2014年)。
また、1981年のFIFAワールドユース選手権準優勝、1991年のFIFA U-17世界選手権ベスト4と若年世代で好成績を収めている。
ワールドカップ出場に最も近づいたのは1998年フランス大会のアジア最終予選であり、この時はホームの最終戦のサウジアラビア戦で勝った方が出場決定という状況であった。
しかし0-1で惜敗し、グループ4位で出場を逃している。
その後ワールドカップのアジア予選では、2002年大会は最終予選まで駒を進めたが敗退し、2006年大会は1次予選で姿を消した。
2006年のアジア大会では優勝したが、2010年大会、2014年大会のワールドカップではともにアジア4次予選で敗退し、本大会出場は実現していない。
2018年大会予選の終了時点でワールドカップ地区予選で通算50勝を記録している。
これは本大会出場を経験していないチームでは世界最多となっている(2位タイは49勝のウズベキスタンとグアテマラ)。
2011年1月、自国で開催されたアジアカップではグループリーグを突破するも準々決勝で日本と対戦し、2-3で敗れた。
2015年のアジアカップではグループリーグ敗退となった。
2018年のワールドカップでアジア地区予選敗退となり、2022年自国開催予定のワールドカップに、開催国枠で初出場を果たす最初の代表チームとなった。
(1930年第1回大会のウルグアイ代表は除く。1934年第2回大会のイタリア代表は初出場だが開催国枠でなく予選を経ての出場)。
2019年開催のアジアカップでは、準決勝まで無失点で勝ち上がる。
決勝の日本戦では初めて失点するも、3-1で破り初優勝を果たした。
カタール人の2011年時点での一人当たりのGDPは98,329ドルと世界トップクラス(金持ち)であるため、カタール人だけでは競争力が伸びにくかった(貧しさはお金を得る為、プロになるという競争力を向上させるモチベーションになる)。
また、カタールは元々人口が少なく、労働力を外国人に頼り2010年時点で約150万8千人の人口のうち、カタール人は2割にも満たない為、帰化にも抵抗が少なかった。
その為、カタールは近年、海外から実力者を引き抜いてカタールに帰化させスポーツの競争力を高めてきた。
2006年カタールアジア大会では、ケニアからの帰化選手がマラソンや中長距離種目で優勝し、男子バスケットボールでは、元セネガル人を多数擁するチームをバスケットボールカタール代表として送り出し、銀メダルを獲得した。
サッカーでは、2006年ワールドカップ予選の際、ブラジル国籍で代表歴のないアイウトン、デデ、レアンドロにカタール国籍を与えて自国の代表にしようとしたことがあるが、国際サッカー連盟(FIFA)は「代表歴のない国籍変更者及び国籍追加者であっても、変更あるいは追加する国に2年間以上の居住歴がない者は、変更あるいは追加した国籍の代表にはなれない」というルールを新たに設けて適用し、これを阻止した…

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